人恋しいのは独りだから

戯言

ヒキコモリ生活12日目。
その間、近所のスーパーやコンビニや通院や犬の散歩には出ているものの、電車に乗る距離の外出はしていません。必要最低限(レジの会計や宅配が来たときなど)のやりとりとパパ電話(週イチでかかってくる)以外は、人と会話すらしていない始末。

ここ数日、久々に「人恋しい」モードに突入しました。
どのくらい久しぶりかといえば、一昨年の新刊(アラフォー本)執筆時のヒキコモリ以来。およそ2年ぶりですね。

たとえヒキコモリでも、メールやFacebookやLINEなど「文字でのコミュニケーション」はしています。むしろ寂しいから、普段よりポストもコメントも増えています。仕事しろよ。笑
ネットの向こう側には生身の人間がいて、リアルタイムでやりとりしているとしても、寂しさが完全に満たされるまでにはなりません。
同じ空間で同じモノを見て、ナマの声を聞きナマの体温を感じなければ、やっぱり物足りなさが残ります。

昔のあたしならば、寂しさを紛らわすために呑みに行き、馴染みのショットバーでバーテンや常連客やいきなり呼び出した友人とクダを巻いたり、彼氏やボーイフレンドやセフレ(!)を呼び出したりしたでしょう。
今だって、同じように「孤独と向き合うことから逃げる」のは簡単です。

だけどそれをしなくなったのは、ちゃんと向き合いたいから。
「寂しい気持ち」を受け止めることで、いつかまた誰かとするであろう「ひとりじゃない」生活は、当たり前じゃなく幸せなものだと実感できるから。

あたしは「生涯おひとりさま」を貫くほど強くありません。
結婚(および家族がいること)の面倒さ、わずらわしさも知っていますが、「独りの自由と孤独の寂しさ」と天秤にかけるなら、あたしは絶対に「愛する男と一緒に暮らす面倒」のほうを選びます。だってやっぱり、愛する男と暮らすのは楽しいもん。
しかし「ひとりのときより、ふたりでいるほうが寂しい」状態になったときはガマンせず、とっとと出ていきます(笑)
愛がなくなった生活は、孤独よりもずっと寂しいから。

今の部屋での生活はもう2年以上になりますが、しばらく寂しさを感じていなかったのは、おそらく昨年から通勤仕事をしていたことが要因でしょう。
毎日誰かと会話ができることや、どこかに居場所のある安心感は、たとえ単身であっても孤独とは縁がない状態でいられました。
今月から自宅作業100%になったことで、それらの不足がクローズアップしたのかもしれません。
(もうしばらくすれば、少しは慣れると思いますが)

誰だって、死ぬときは独り。
看取ってくれる人がたくさんいようと、旅立つときはひとりぼっちです。
だからこそ、生きている間くらい、誰かと愛し愛されて暮らしたい。

今は、感じる気持ちにフタをせず「寂しい」と叫んで両手を広げ、愛を逃がさず受け止めようと思います。

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