正常でいたい人々、異常だと安心する人々

戯言

いつだって我々は、自分が正常であると信じている。
しかし人によっては、あるいは物事によっては「異常」というレッテルを貼られたほうが安心する(むしろ異常だと思われたい)場合もある。

本来、毎日元気に活動するためには「健康でありたい」と考えるのが普通だと思うだろう。
しかし、たとえば学校に行きたくない気持ちがピークに達した人は、「病気になりたい」と仮病のフリをしたり、強く望むあまり本当に熱が出てしまったりする。
これは会社に行きたくない人も同様だ。いい大人でも、むしろ悪知恵が働く大人だからこそ、穏便に休むなら仮病を使ったほうが賢明だと考える人は少なくないだろう(笑)

隣の芝生の青さに憧れる人々

正常/異常に類似した概念として「普通でありたい/個性的でありたい」という区分もある。

一見フツーな感じの人ほど「個性的になりたい」と望み、傍目に変わった人ほど「フツーがいい」と願う。お互い「隣の芝生は青く見える」ものだ(笑)

あたし自身、幼少時から集団の中で浮く自分を憂い「フツーがいい」と望んでいた。にもかかわらず、結局フツーに短大を卒業することすらできず、その後フツーの会社員になれたにもかかわらず、紆余曲折あって今は物書きをやっている。フツーの主婦になりたかったはずなのに、結局主婦にも母親にもなれず結婚離婚を繰り返す羽目になった。

およそ半世紀生きてきて思うのは、「普通」という物差し自体を定義するほうが間違ってるんじゃないかということ。
なまじ標準や基準を己の中に決めてしまったがために、そこに沿えなければ「ダメなヤツ」の烙印を押してしまう。できない自分に落ち込んだり悩みを増やしてしまったのも、自分とは違う「フツーの(と定義した)人」にならなければ……と思い込んでいたからだ。

たまたま作家業に身を置いたおかげで、あたしはそれらの呪縛から解放された。

フツーの人がフツーのことをフツーの切り口で書いても、読み物としては面白くもなんともない。作家に変人が多いのは、そのズレ具合が面白い読み物として評価されるからだ。プロの作家は「プロの変人」ということなのかもしれない。

十年以上物書きをやっていると、同業者に会う機会も多くなる。ずっと「個性と認めるほど開き直れない、少々頭のおかしな自分」と折り合いをつけながら生きてきたが、同業者にはもっと頭のおかしな変人(失礼)がたくさんいた。
マイノリティーであるはずの変人がマジョリティーに存在する業界では、あたしなどぜんぜんフツーの女である。ホッとする反面「だから売れないのか」と思うと胸中複雑ではあるが。

他人にはなれない。だが自分を何者かにすることはできる

人の性質はさまざま。同じ家で同じ両親から生まれても兄弟は違うタイプになるし、同じような環境で育つクラスメイトでさえ、ひとりひとり個性は異なる。
たとえ外見や出自や価値観や発想が似通っている人が周辺にいようと、あなたがその人になることはできない。

仮に、大好きな彼があなたではなく隣の友人を好きになってしまったとする。いくらあなたが友人の真似をしても、彼が心変わりするほど人間は単純ではない。SFよろしく友人と肉体まで入れ替わったとして、自分ではない友人のペルソナを愛されても、あなたは嬉しく思わないだろう。

他人になることはできないが、自分を変えることはできる。
自分を愛し、己を高め、もっとすごい人になろうと努力することは、誰でも実現可能だ。

手加減するも自由、極限までストイックに改造するも自分次第、もっといえば、成長させようと堕落しようと進歩しようと後退しようと、すべての未来は自分の手中にあるのだ。

「選ばれる」ことはコントロールできないが、「選ぶ」ことは自在にできる。
普通であろうとなかろうと正常であろうとなかろうと「この自分」が選んで進んだ道なのだから、たとえ肉親でも「間違っている」などと指摘される筋合いはない。

広い世界の中で、社会という集団の中で、必ず自分が生きやすい場所は存在する。世界で一番大切な人にもめぐり会えるし、世界で一番愛される幸せを味わうこともできる。
自分以外のものになろうなんて思わなくていい。ただ自分を大切にし、自分を愛し続けることができるよう、望む道へと「中の人」である自分がナビゲートすればいい。

それが「自分らしさ」なばら、正常でも異常でも、普通でも変人でもいいのだ。

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